場(固有性)と時(都市の動き)のデザイン(環境形成における近代的構法と伝統的手法の統合)

Vol 8.1 山の手・代官山 都市に素敵な風景をつくる ―都市デザイン力で素敵なまちづくり―

Vol8.2 寺町・谷中

 

Vol 8.1 山の手・代官山 都市に素敵な風景をつくる ―都市デザイン力で素敵なまちづくり―

東京藝術大学美術学部建築科 講師 河村 茂 氏 博士(工学)

 
9.30 UPDATE

(固有性)と時(都市の動き)のデザイン(環境形成における近代的構法と伝統的手法の統合)

 アメリカで都市デザインを学び、大学でそれを講じてきた槙にとって、自ら手掛ける建築設計は都市デザイン(まちづくり)そのものである。槇は、日本の先を歩むアメリカでの生活体験をふまえ、時代の変化(成長から成熟へ)を見通し、時間軸に沿い、この地の将来的な変化を予測、大規模敷地のポテンシャルに留意し、この地の固有な価値を場所のもつ魅力にまで高めていった。いまでいうところの地区まちづくりを、槇は四半世紀以上の時をかけ都市デザインを通して実践していった。

  建築設計を通じアメニティ高い環境を創出するには、複数の建築物を群として有機的にデザインする必要がある、またこの地の場合、建物用途も時代の変化を考えると、単なる住宅の集合体であってはならず、東京の都市構造の動きをふまえ店舗や事務所また文化施設など、将来的にこの地の生活に必要となる用途を複合的に構成することが肝要であった。

(1)近代的な都市デザイン手法の適用 ミクスト・ユース、プラザ、サンクンガーデン

  このプロジェクト最大の特徴は、槇が、こうした課題に対し、近代的な空間構法と日本の伝統的まちづくり手法を用いて対応したことにある。ヒルサイドテラスの建設は、この地の価値を高めるべく、自然地形(崖線、坂など)や大規模敷地の段階開発という制約をふまえ、近代的構法を用いて都会的センスを醸す建築物群として環境デザインしていったことと、日本の通りを軸とした伝統的なまちづくり手法(連歌のように、先の句を受けて後の句がこれをつなぐ)を適用しまちを設えていったことである。

  具体には、この地が幹線道路に面した坂道沿いの敷地で、高さ制限10mがあったことから、低層高密度の開発をめざすと街路レベルに半地下空間ができてしまうので、この部分を住居にあてることはためらわれ、店舗など商業施設を配し、その上部に安寧が必要とされる住宅を配する空間構成とした。この住宅も2階と3階をつなぎ合わせ、フレキシブルに利用できるようメゾネットタイプのものとした。こうしてこの地の建築は、住居のプライバシーの確保と人が集まる店舗や文化施設また外部の緑地・広場といったセミパブリックな空間におけるコミュニティの形成、そして街路や公園といったパブリックな空間との関係を意識し、平面的にも立体的にも相互に見え隠れし奧性を感じるように空間構成していった。

  しかし、ここで問題が生じた。それはこの地が現状追認的に第一種住居専用地域(当初は容積率150%、高さ10m、現在は第二種中高層住居専用地域(容積率300%、建ぺい率60%)。)に指定されていたからである。この用途地域だと専用の店舗や事務所などは建築できない。それは低層住宅地の良好な住環境を維持するためには、地域コミュニティの外から不特定多数の者が入り込んでくるのを抑制する必要があるからである。

参考 用途地域について
近代都市整備の目標像と実現のツールについて 用途地域、区画整理・再開発、近隣住区
  用途地域の指定が市街地像と乖離しているという話をよく聞く、しかし、用途地域に代表されるゾーニング制度は、元々地域の市街地像を実現するツールとはなっていない。なぜなら用途地域の指定基準も規制内容も全国一律であり、そんなツールを用いて各地域毎に異なる地域像など反映できるものではない。ゾーニング制度は経済成長をふまえ拡大する都市において、産業都市としての整備を円滑に進めるため、建築活動の動きにあわせ必要となる都市施設を適切に整備するとともに、規制の幅をほどよくとって生活環境として最低の水準を確保しながら、土地利用転換をスムーズに進めるためのものだからである。

  決して地域像を実現するためのツールとして成立しているわけではない。それに用途地域のモデルとなる市街地は、ビジネス街ならニューヨークとか丸の内、商業地なら銀座みたいなまちをイメージし、ミニ丸の内や小銀座を全国に展開していくのが近代都市計画だからである。容積率制度導入以前はパリのバロック都市がモデルであったが、これ以降の市街地モデルは、中心部はコルビジェの描いた「輝く都市」で、周辺部はハワードがヒントを提示しペリーが詳細を描いた近隣住区である。この近代都市計画の考え方に基づけば地域固有なものは、むしろ否定されている。

  それは近代都市計画が、科学技術の進歩発展に支えられた合理的な精神に基づき、近代以前の伝統的文化を否定し、新しく工業社会にふさわしい都市・環境を形成していくための手立てとして構築されているからである。即ち、工業社会の器である産業都市の整備をめざし、機械システムを参考に企業が都市活動しやすいよう(事業者の論理で)、必要なら区画整理すべくブルドーザーとダンプカーを用いて自然を改変、また再開発で地域の歴史と文化を拭い去り、あたかも機械部品のようにして、地域のまちを都市の部分として構築していくよう仕組まれている。正に機械文明の進歩発展を信奉し、「速く高く大きく」という産業都市整備の要請に対応し、そのコンセプトを実現するためのツールとして存在しているのが、近代都市計画なのである。近代都市計画において都市像(都市イメージ)は一つで、インターナショナルスタイルとして世界共通のものとなっている。だから各都市毎に都市像を描く必然性が弱かった。つまり成長拡大過程にある産業都市はどこでも同じ目標イメージに向かって整備されていた。

  近代社会においては、歴史性や伝統文化の継承などとは一線を画し、ある意味、過去とは断絶する形で新しく近代(産業)都市を創りあげていくことが求められた。つまり近代都市の整備は、旧来の伝統の呪縛から解放するべく、明治この方「御一新」の思想の下に進められてきたのである。

用途地域制度のねらいと用途規制の方法など
  用途地域は、建築規制において、利害の共通する種類の用途のものは同じ地域に立地させるよう規制することで、相互の利便の増進を図るとともに、その一方で利害の相反する種類の用途は、なるべく同じ地域に立地させないよう規制することで、用途の混在を防ぎ一定の環境を保持。また、これとあわせ建築物の密度・形態等に一定の枠をはめ、都市レベルの公共・公益施設の整備に目標と方向を与え、地域に見合った適切な都市施設を整備していくためのものである。

  用途地域は、都市のダイナミックな動きに柔軟に対応するため、土地利用転換を前提にある程度の混在を容認し、建築物の立地をコントロールする手法である。用途規制の方法としては、地域毎に許容できる用途の範囲を限定的に明示する積極的なやり方(立地用途明示型)と、逆に、許容できない用途の範囲を明示する消極的なやり方(禁止用途明示型)とがある。

  前者は土地利用の方向が明確で、住民もこれを強く支持している場合に有効な方法である。現行制度では第一種低層住居専用地域、第二種低層住居専用地域及び第一種中高層住居専用地域がこれにあたる(その他の用途地域は全て禁止用途明示型である。)。また、後者は、土地利用の方向が今一つ明確でなく、住民の合意もできていない地域に用いられる。この場合は、近隣生活公害の防止など、どうしても矛盾あつれきを起こすものに限り規制を行うことになる。しかし、この型の場合、公害型工場の類は一応規制できるが、事務所・店舗など規模や形態の問題を別にすれば、用途そのものはあまり問題とならないものについては規制が困難なことから、用途の混在状況に応じ段階分けし、まるで望遠鏡のように幾つかの筒が階段状にせり出すような規制方式となる。

  建築基準法による用途規制を望遠鏡に見立てると、立地用途明示型が一つの筒、残りの第二種中高層住居専用地域から準工業地域までが一つの筒、そして工業地域と工業専用地域がまた一つの筒で、この三つの筒毎に大きく用途規制されている。
以上のことからもわかるように、現在の規制方式は法が予想しない新たな用途が出現した場合、立地用途明示型の地域を除きトラブルが起こる可能性を残している。これを根本的にかえるには、地区(詳細)計画方式での規制の導入をまたねばならない。しかし、この方式は変化の激しい成長拡大期に適用することは容易でなく、安定成熟期に入った都市において有効な方法といわれている。

  なお、用途規制における例外許可の扱いであるが、用途規制が比較的緩く行われている現状に鑑み、例外許可を運用する場面は少ないが、地域状況が移り変わりつつあるのに、タイミングよく用途地域の見直しができない場合などに活用が考えられる。また、当該地区には必要ない施設であっても、広域的に見ると必要な施設もある。そうしたものは、地域の環境を害する恐れがなく、公益上やむを得ない場合などに、例外許可の制度が運用される。

 日本の先を行くアメリカ社会に学び生活してきた槇の目から、日本経済の成長の動きをみると将来的な東京の都市構造の変化が見通せた。旧山の手通りに面するこの地は早晩、土地利用が変化し将来的には用途地域も見直されると・・・。そこで槇は、そうした動きを先取りするかのように、「用途の許可」制度を活用し禁止されている店舗を実現した。また、事務所については法に適合した建築仕様(住宅)のまま、アトリエ型の事務所としても使えるメゾネットタイプの集合住居として計画した。使い勝手からみると、法の趣旨に合わないかもしれないが、槇はそのうち時代が追いつき規制と実態とのミスマッチを解消してくれると考えた。その時期(用途地域の見直し)は、ヒルサイドウェストの時にやってきた。ここで初めて建築の仕様と使われ方とが完全に一致することになる。しかし、皮肉にもこのコンビによる開発は、ここで終わってしまう。時代がヒルサイドテラスに追いついたところで・・・(お役目を果たし終えたということか・・・。)。

 また、コーナープラザやペデストリアンデッキ、中庭プラザやサンクンガーデンなど、アーバニティあふれる豊かな外部環境を創出するためには、複数の建築物を一体的に配置構成することが求められた。ヒルサイドテラスでは計画のスタート時点から、建築は団地計画として構想されていたことから、建築基準法の特例措置である「一団地認定」の制度の適用が企図された。その後、二期・三期と計画が進展するのに対応し、この一団地認定は新たな建築物が付け加わる都度、変更する形で進められた。

  槇は、このまちづくりにおいては近代的な都市デザインの提案に終わらず、近未来に向けた都市の動きを見通し、コンパクトなまちづくりとして、用途の混在、複合化による高密度開発として、賑わいや文化交流のあるまちづくりとしている。メゾネット方式の住居やその付属テラス、ルーフガーデン、また建物外部のコーナー広場やプラザ、そしてサンクンガーデンやペデストリアンデッキなど、近代的な都市環境デザインのツールを駆使した空間構成は新鮮で、建築関係者だけでなく街人の心までも惹きつけてやまなかった。

(2)通りを軸にしたまちづくり 伝統的なストリート型のまち

スロー・ディベロップメントのまち 身の丈にあった小規模連鎖型の開発
 大街区方式の再開発だとまちづくりは一気に終わってしまい、あと50~100年は維持保全と運営管理ということになってしまう。そうなると社会ニーズの変化に対し空間を設え直すことが難かしくなる。この通りに沿ったまちづくりは、将来的にどこまで広がりをもって展開していくのか、当事者においても必ずしも明確でなく、完成したものに対する世間の評価を見つつ、資金や開発力を貯え、計画内容のブラッシュアップを図り、漸進的に開発を進める形となった。即ち、移ろいゆく時代の空気を嗅ぎ取り、先行する開発を受け次なる開発がこれをつなぐよう、正に連歌のようにして場所のもつ価値を学習効果を発揮しながら順次、高める形で取り組まれた。いわゆるスロー・デベロップメントである。

ヒューマンスケールのまち 歩いて暮らせる低層集合住居群
 朝倉と槇は、都会暮らしのアメニティを追求し、この地を気に入って住む人が居心地良く暮らせるよう、店舗や文化施設などを適度に混ぜ(ミクストユース)、プライバシーとパブリックな面が両立するよう、平面的にも立体的にも見え隠れする巧みな空間構成によって、良質な環境・景観を備えた低層集合住宅群を、プロデュース&デザインしていった。また、自動車やエレベーターなどに頼らず徒歩で快適に動き回れる、ヒューマンスケールのまちとした。

 ヒルサイドテラスの場合、オーナーは「土地活用にあたり、性急な開発を望まなかった。良質な環境・景観の形成を望み長期にわたり快適な場所となるよう、代官山を取り巻く環境の変化を織り込んで順次、建築されていく、段階開発方式での持続的発展を望んだ。また、中小デベロッパーとして資金調達が容易でないこともあり、事業展開には、それなりの時間を必要とした。朝倉は地元に腰を据え(現に、この地に暮らしている)建物を完成させては、それをじっくり味わい分析し、そして事業収益を貯えては、また世の中の動きをみて、新たに建物を付け加えるというスタイルで事業を進めた。

 朝倉は地元の中小デベロッパーとして、正に身の丈に合った形で開発を進めていった。結果、東京の都市構造の変化に適応した形でまちづくりは進み、世間でもあまり例を見ない同一施主と同一建築家のコンビで、20~30年間にもわたる長期の地区開発(まちづくり)となった。

参考 ジェイコブズの人間都市論と槇のアーバンデザイン
生活者、環境・文化を重視した段階開発のまち
 2004年、このヒルサイドテラスの背後に見え隠れするようにして建つ、旧朝倉家住宅が重要文化財に指定され、旧住宅の保存(旧)と前面のヒルサイドテラスの新開発(新)とが融合するまちとなった。この文化財指定は、槇たちが政財界を巻き込んで運動した成果でもあった。

 工業社会が進展する中、経済成長・都市拡大への対応策として登場した近代都市計画は、過密からの解放と量的拡大を志向していたため、まちづくりは土地の有効高度利用、建築物の中高層化を前提に仕組まれており、タワー&プラザ型の開発が推奨され、これと正反対の低層集合住居群の開発は、制度面からも十分にフォローされてこなかった。これまで低層住宅地は、都市計画において保全の対象とはなりえても、これを積極的に生み出す仕組みは弱かった。

  しかし、このヒルサイドテラスを軸にした代官山のまちの発展は、まちづくりにおける都市デザインの重要性を多くの人々に知らせしめた。地元の中小デベロッパーと新進気鋭の建築家・都市デザイナーとが組み、長い時間をかけ学習効果を発揮しながら、新しい魅力(ミクストユース、ヒューマンスケール、スロー・デベロップメントなど)・価値(まちづくりの漸進性と持続性、都会センスあふれる街並み・環境)を創出していく姿は大変新鮮であった。

 このヒルサイドテラスのまちづくりは、近代都市理論のアンチテーゼとして出されたジェイコブズの都市論・考え方と共通するものがある。即ち、このプロジェクトをよく見ると、①用途は混在、②まちの開発密度は低層のわりに高密度、③大街区方式ではなく小規模街区連鎖型での開発、④建物群は新(ヒルサイドテラスとしての開発)と旧(旧朝倉家住宅の重要文化財としての保存)を織り混ぜゆっくりとした開発となっており、正に生活者の視点に立ったジェイコブズ理論の実践となっている。さらに、槇はこれに日本の伝統的なまちづくり手法である、通りを軸に様々なものが見え隠れする手法を取り入れている。即ち、建物に出隅入隅をつけたり通りより奥まった所に人を誘うべく、ひだ状に通路を設けるなどしてまちを構成している。

 まちづくりの手法としては、移ろいやすい流行性の需要を捉え、容積を目いっぱい利用して一気に量の供給を図る、短期決戦型の大街区を単位とした再開発型まちづくりもあるが、ここヒルサイドテラスでは環境・景観の形成に重点をおき、身の丈にあわせ(資金力、開発力)場所のもつ価値を順次、高めるべく長期的視点から場所のもつ固有な価値(自然地形、大規模な敷地、緑豊かで品格あるお屋敷街など)の維持向上をめざし、都市デザイン力を駆使してまちの持続的な発展を図るべく、通りを軸にしたまちづくり方式を選択した。

  街区単位の再開発型まちづくりは、等価交換方式を採用し「床面積=経済価値」と考え、これを最大限に実現しようと動くため、短期間に相当量の資金を投入し床を供給する事業となってしまう。一方、小規模な開発が連鎖するようなまちづくり方式は連歌のようにまちを順次、修復・保存しながら整備するタイプの開発であることから、長い時をかけて都市構造の変化にあわせ取り組まれるため、環境の変化への追随性がよくまちは持続的で陳腐化しにくい。

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