一周遅れのトップランナー(のんびり穏やかに、そして楽しく暮らす、プチ観光地化)

Vol 8.2 寺町・谷中 都会の隠れ里、雑誌でまちづくり ―地域価値を発掘、世間の支持を得て修復・保存―

Vol8.1 山の手・代官山

 

Vol 8.2 寺町・谷中 都会の隠れ里、雑誌でまちづくり 
―地域価値を発掘、世間の支持を得て修復・保存―

東京藝術大学美術学部建築科 講師 河村 茂 氏 博士(工学)

 
9.30 UPDATE

一周遅れのトップランナー(のんびり穏やかに、そして楽しく暮らす、プチ観光地化)

都会の中の村 時がゆっくり流れる隠れ里

 この地は、台地の中の谷地という微地形や、防衛拠点・寺町としての歴史的なまちの形成過程から、区画整理により整然と街区割りされ道路の入る近代的な都市整備には馴染まず、ある意味で取り残されたかのような佇まいをみせてきた。しかし、近代化目標を達成してみると、時代はめぐるではないが、これまで犠牲にしてきたもの抑えてきたものへと、人々の関心が向かっている。それを暮らしの面からみると、村的な雰囲気に凝縮される穏やかで安らぎのある場所への回帰ととらえられる。人と語らい面白可笑しく楽しい時を過ごす、そんな平安な心癒される谷中のような佇まいのまちに、人々は心惹かれるようになってきている。

  それでは大都会東京の中にあって、この地がこれまで穏やかな村落的な雰囲気を保ってこられた、その要因を探ってみよう。まず第一にあげられるのが、台地の中の谷地という、この地の複雑に入り組む微地形の存在である。狭く折曲がり行き止まりの多い路地状の道、坂や階段のある狭い道の存在から人がスムーズに動きまわれないことである。第二には、寺町としての多数の寺院の存在である。お寺があると、どうしても再開発しにくい。何しろ檀家の数が多い、また、その門前の境内地である町屋は寺院が地主となり借地に供していることから、権利が複雑、狭小宅地(権利者数が多い)で長屋などの密集地でもあることから、その1人1人の合意を取り付けるのは容易なことではない。そんなことから開発業者も、この地には手をつけない。第三に、こうした地形と寺町というまちの性格から、まちの状況が外部の者には見えにくいことである。

  また、この地は、居住年数の長い人が多い。太平洋戦争前やその直後から住んでいる人が34% 1985年以降の人が33%、という構成になっており、それゆえ地域の一体感も強く地域コミュニティが維持されている。このことも大都会の中心部に位置しながら、村落的な雰囲気を残す要因となっている。この地の人口は約1万人、住居は持ち家が4割、民間借家が6割で、8割超の人が居住継続の意向を持っている。その理由を尋ねると、緑豊かな環境があり、町会など地域基盤もしっかりとし、コミュニティ活動が活発で、地域のまとまりがよいことをあげる人が多い。

アーバンビレッジの計画技法 自然地形を活かしたハード面とソフト面からの強固なコミュニティ基盤

  計画的にアーバンビレッジをつくろうとするなら、これらの事実に着目し①道は狭く所々に坂や階段を取り人間中心のクルドサックとし(通過交通の排除)、また②要所には寺社を配置し、これを緑とオープンスペースの核として、③その周囲の住宅地は借地中心とし集合住宅を主体に借家人を多数置く(高密度化)ことがポイントとなる。このようにすれば自動車も入ってこなければ地上げも行われない、また大規模な高層建築物も建たず、地主・大家のガバナンスも効いて、落ち着いて長く暮らしていけるまちとなる。これが谷中のまちが教える、癒しのまちづくりの計画技法である。

  また、この地は木造住宅密集地であるにもかかわらず、関東大震災や戦災の時も被害が少なかった。これはコミュニティ基盤がしっかりしているだけでなく、南に上野公園(不忍池を含む)が配置され、水と緑の大規模な空閑地となっていること、そして東は武蔵野台地の縁辺部で崖線を形成、ここで下町と遮断されており、台地上には寺院を中心に谷中墓地など空閑地が多く存していたことが大きい。

  このように自然地形を活かしたハード面と、ソフト面からの強固なコミュニティ基盤に支えられ、この地のまちづくりは防災面でも生活文化面でも、穏やかで安らぎのあるものとなり、その村的な雰囲気からアーバンビレッジと呼ばれるに相応しい雰囲気を醸している。何しろこのまちは、台地の中の谷地という微地形(狭い路地、曲がった階段状で行き止まりの道等々)が自然のクルドサック(通過交通の排除)となっていて、人も車も入りづらく、そのためこの地では人間達だけでなく、猫も安心してまちを徘徊することができる。そんなのんびりした、心安らかで穏やかなまちなのである。

  夕方、谷中銀座の入口にある階段から遠く望む沈みかけた太陽に、あの三丁目の夕日の世界がダブってみえる、そんななんともノスタルジックな気分にさせてくれるまちなのである。しかし、近年は地域雑誌・谷根千の活躍もあり、まちの魅力が広く世間に理解されたこともあり訪問客が増え、「夕焼けだんだん」の名がついた谷中銀座商店街も、かつては下町型の近隣商店街であったが、いまでは押しかける観光客相手にサービスを提供したり、お土産物を売る店に変わってきており、プチ観光地として地域が活性化してきている。このようにして穏やかな日常が、ややざわめき始めているというのが谷中の最近の姿である。

谷中の地の沿革
1603年 江戸幕府開設
1625年 寛永寺が創建される
1648年 江戸市街拡張、神田から15寺院移転
1657年 明暦の大火、大江戸化に伴い多数の寺院が谷中に移転「寺町」形成
1768年 笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」看板娘お仙が大人気
1833年 感応寺(天王寺)、五重塔のもと江戸三大富くじとして賑わう
1868年 上野戦争、谷中の寺院も多数消失(現在、寺院の数は60ほど)
1883年 上野駅が開業
1887年 東京芸術大学の前身、東京美術学校と東京音楽学校が、この地に移転
1891年 東北本線青森まで延伸、谷中村→谷中天王寺町へ
1916年 不忍通り、路面電車開通
1923年 関東大震災、被害ほとんどなく
1967年 都電廃止
1969年 地下鉄千代田線開通(谷中銀座の客が減る)
1971年 西日暮里駅開設
1978年 コミュニティセンター・委員会設立(コミュニティセンターは1979年に完成)
1984年 菊まつり、地域雑誌・谷根千スタート
1986-88年 上野桜木・谷中・根津・千駄木の親しまれる環境調査実施
1987年 旧吉田屋酒店移築保存
1988年 谷中学校(まちづくりグループ)組織される
1990年代 下町ブーム
1994年 芸工展スタート
1998年 三崎坂マンション紛争
1999年 谷中・上野桜木地区まちづくり憲章制定
2000年 谷中まちづくり協議会を組織、谷中三崎坂建築協定締結
2003年 たいとう歴史都市研究会組織設立

参考文献等
手嶋尚人:「地域に根ざした専門家をめざして」市街地再開発(No.434)(社)全国市街地再開発協会2006.6
住まい・まちづくり活動推進協議会調査研究「まちを生きる~地域の住まい・まちづくり活動史研究(谷中界隈編)」一般社団法人住まい・まちづくり担い手支援機構2010.3
「コミュニティ防災とまち並み形成による路地文化再生のまちづくり」シンポジウム
木造住宅密集地区のまちづくりに取組む各地域団体の経過と課題 1.台東区谷中地区―谷中地区まちづくり協議会 特定非営利活動法人 まちづくり推進機構2009.6
手嶋尚人:東京家政大学市民講座「地域の自然・文化・社会と調和する町づくり、町おこし」2007~2008