可燃ごみは、清掃工場で安全に焼却し、焼却灰の一部はセメントの原料等に利用するが、大部分は埋立処分場に運搬する。
不燃ごみは、不燃ごみ処理センターで破砕し、その中から鉄・アルミを資源として選別・回収した後、埋立処分場に運ばれる。
粗大ごみは、粗大ごみ破砕処理施設で破砕し、その中から鉄を選別・回収している。その後、破砕した粗大ごみのうち不燃ごみはそのまま、可燃ごみは清掃工場で焼却してから埋立処分場に運ぶ。回収した鉄等の資源は、貯留ヤードで売却までの間一時保管する。
可燃ごみは、清掃工場で安全に焼却し、焼却灰の一部はセメントの原料等に利用するが、大部分は埋立処分場に運搬する。
不燃ごみは、不燃ごみ処理センターで破砕し、その中から鉄・アルミを資源として選別・回収した後、埋立処分場に運ばれる。
粗大ごみは、粗大ごみ破砕処理施設で破砕し、その中から鉄を選別・回収している。その後、破砕した粗大ごみのうち不燃ごみはそのまま、可燃ごみは清掃工場で焼却してから埋立処分場に運ぶ。回収した鉄等の資源は、貯留ヤードで売却までの間一時保管する。
東京23区で発生した家庭ごみは、各区の清掃事務所が、可燃ごみ・不燃ごみ・粗大ごみ・資源の種類別に収集し、それぞれの中間処理施設(清掃工場、不燃ごみ処理センター、粗大ごみ破砕処理施設)への運搬を行っている。
中間処理施設は、23区が中間処理を共同で行うために設立した「東京二十三区清掃一部事務組合」が運営しており、これらの施設において、ごみの埋立量を少なくし、最終処分場(埋立処分場)の使用可能年数を伸ばすために、ごみの焼却・破砕を行っている。
ごみの3Rとは、ごみの発生を減らすこと(Reduce)、繰り返し使うこと(Reuse)、再資源化すること(Recycle)の英語の頭文字Rの3つを言う。
1980年代中頃に米国が使用したのが始まりとされており、ごみの発生量を限りなく少なくすることでごみ処分による環境への悪影響を極力減らすこと、および持続可能な社会(=循環型社会)をつくろうとする活動である。
東京都では、23区から発生したごみ等の埋立処分は東京港内にある中央防波堤外側埋立処分場で行われており、現在の処分場をできるだけ長期間使用しなければならない。
3R活動により、ごみの分別やリサイクルの促進等で埋立処分量は年々減少しており、処分場の残余年数は試算では50年以上となっているが、地震等の大規模災害により発生する廃棄物は含んでいない。
IFRS財団は気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)の提言を受け、サステナビリティ開示における国際的な基準を策定するため、国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)を組織し、2023年6月に気候変動に関するサステナビリティ開示基準S1・S2を発表した。ISSBは、2023年12月13日気候変動の次に取り組む開示基準のテーマを「生物多様性・生態系・生態系サービス」「人的資本」「人権」の3つから選択することを検討している。
気候変動により海水面が上昇し、島の陸地部分が水没し、島民は移住せざるを得なくなりつつある。この対策の1つとして、水上都市計画があり、海底に伸縮可能な柱を基礎としてその上に建築する浮体式住宅だ。電気は屋根に設置する太陽光パネルによる発電や潮流発電を利用する。空調や生活用水は海水を濾過するなどして利用する。
明治35年(1902)頃になるとガス七輪やガスストーブ等が新聞広告に掲載され始めた。しかし、フレッチャラッセル社製やハンツヴィトレ・オシル社製のストーブ等輸入品が中心で高価なため富裕層に限られた商品だった。燈火用・燃料用ともに普及したのは、明治44年(1911)頃からで、大正12年(1923)の関東大震災以降、一気に燈火用が激減し、燃料用が主流となった。
明治10年(1877)上野公園で、第一回内国勧業博覧会が開催された。この博覧会で16弁の菊をかたどったガスのイルミネーションを「花ガス」と言う。当時の見物客は、花弁からガスの灯りを見て、西洋に追いつくための産業振興の1つとして見ていた。因みに明治3年(1870)福沢諭吉の著書「西洋事情」の初編巻之一の最後にガス灯に関する記述がある。
「石炭ヲ釡ノ内ニ密閉シテ之ヲ蒸シ焼キニスレハ炭ノ氣ヲ発ス此氣ハ炭化水素瓦斯トイウモノニテ之ニ火ヲトボスレハ空氣ト合シテ燃ヘ其光油、蝋燭ノ火ヨリモ明ナリ・・・」
照明は、薪を燃やしたり、松明や蝋燭、荏胡麻や菜種、綿の実等植物油を灯油として利用する等、江戸時代までの前近代では様々な方法で行われていた。石油ランプは安政6年(1859年)に渡来して以降、明治に入って普及した。明治5年(1872)横浜でガス灯が実用化され、明治7年(1874)東京会議所が金杉橋~京橋に85基ガス灯を設置して事業を始めた。因みに、東京会議所は、江戸時代から町民が積み立ててきた七分積金というお金を引き継いで管理し、ここから支出して部材の買い付けを行ったといわれている。
※参照
当初、裸火で暗かったが、ガスマントルの発明により明るさが4~5倍に増え、室内照明として普及した。明治11年(1878)にアーク灯が最初の電灯だったが、明るすぎて室内照明には不向きだった。大正期に入り電灯にその地位を譲り渡すことになる。因みに、明治12年(1879)エジソンがカーボン電球を発明し、以後はタングステン電球、二重コイル電球等多種多様な電球が発明され、いまのLED電球に至る。
日本は2021年4月に、「2030年度において、2013年度比で温室効果ガス46%削減を目指す」と表明した。
環境省は、2013年度と2019年度の温室効果ガス(CO2、CH4、N2O、HFCs、PFCs、SF6、NF3)の年間GHG排出量はそれぞれ14.08億トン(CO2換算)・12.12億トン(同)と発表している。つまり、2013年度比46%削減というのは、2030年に排出量は7.6032億トンにするということである。
そして、今回の合意文書で計算すると12.12億トンに40%を乗じると2035年に排出量を4.848億トンまで減らすということになる。これを現在の公約に当てはめると、「2035年度において、2013年度比で温室効果ガス65.568%削減を目指す」となる。
行政・家計・企業が一体となって削減達成可能な具体的ロードマップを策定しなければならない。
2015年のCOP21で採択したパリ協定で採択した目標のこと。産業革命前の気温をベースとして、当時からの気温上昇を1.5℃に抑えることを目的とした。1.5℃を超えると地球温暖化による異常気象が各地で発生し、干ばつや山火事、河川の氾濫等が頻発するといった災害リスクが高まると言われている。COP28の合意文書では既に気温が1.1℃上昇したと記載しており猶予は無い。
第28回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP28)は2023年12月13日に閉幕した。成果文書では、「・・・2050年までにネットゼロ(温暖化ガス排出の実質ゼロ)を達成するために、この非常に重要な2020年に科学的知見に基づく公正な方法でエネルギーシステムから化石燃料の脱却を加速する・・・」文言を明記した。
また、加速させるためにも130カ国が賛同した再エネを2030年までに現状の3倍に拡大させる目標を明記した。
船外機は、エンジン冷却のために大量の水を汲み上げながら走行し、冷却後にその水を戻す構造になっている。
スズキは、世界で初めて船外機の戻り水用のホースに取り付け可能なフィルター式のマイクロプラスチック回収装置を開発し、走行するだけで水面付近のマイクロプラスチックを回収することができるようにした。
小型船舶は、①総トン数20トン未満の船舶 ②24メートル未満のプレジャーボート及び特定漁船をいう。なお、総トン数は、重さではなく容積を言う。
また、②において24メートル未満であれば総トン数20トン以上のプレジャーボートや特定漁船は小型船舶と定義する。
ちなみにプレジャーボートとは、マリンスポーツやレクリエーションのみに用いられる船舶である。
これら小型船舶は、大気汚染防止原動機証明書を取得し、その確認と承認を受けたエンジンを設置し、かつ、船内に手引書と証書を常備しなければならない。
「海洋汚染等及び海上災害の防止に関する法律」で、船舶等から排出される有害液体物質や廃棄物による海洋汚染・海洋災害の防止、および海洋環境の保全を目的とした法律。
大気汚染ガスの排出に関する規制も当該法律には記載されており、概略は以下の通りである。
①小型船舶の運航では特に問題ないが、大型専用船等では、トルエンやキシレン等揮発性有機化合物の排出が規制されている。
②小型船舶で使用するA重油や軽油、ガソリン等は国際基準を満たしているが、大型専用船で使用する燃料油の硫黄分濃度は、一般海域と指定海域を区分して国際条約により規制している。
③ノックス(NOx:窒素酸化物)は、硫黄酸化物と並び酸性雨や粒子状物質などの原因物質である。船舶については、定格出力130㌗(約177馬力)以上のディーゼルエンジンは、排気ガスに含まれるノックス量が一定の基準以下でなければ使用できない。
ポリ袋は、ポリエチレン(PE)即ち石油から精製されるナフサから作られるプラスチックの一種であり、化石燃料から作られる製品はCO2を排出する。
ラップは、ポリ塩化ビニリデン(PVDC)やポリエチレン、ポリ塩化ビニル(PVC)、ポリメチルペンテン(PMP)、ポリオレフィン(PO)等で作られる。塩素系ラップは、ダイオキシン発生リスクがあるため燃えないゴミとして処理する。
ポリ袋およびラップは自然界では分解されず、海洋でも長期にわたって残存することになるため、海洋環境、船舶航行、漁業や沿岸域の生活環境への被害が想定され、最近では、海洋中のマイクロプラスチックが生態系に及ぼす影響が懸念されている。
給水に限りがある場合には、食器を包み汚れ防止に使用できるほか、強度に優れているので、捩ることで紐に加工し、身の回り品をまとめておくことができる。
また、ピンと張ることで、ゴーグルとして目を粉塵等から守ることも可能である。
ゴミ袋や給水のための袋として利用することが考えられる。
防災グッズには簡易トイレの商品も販売しているが、非常時に持ち合わせていない場合には、代用することも可能である。
また、カッターやナイフ、ハサミを所持していなくても指で穴を空け、雨除けポンチョや、保温性も高いため防寒用のウインドブレーカーに加工することも可能である。
1981年7月に凌雲閣跡地とされる浅草2丁目13番で発掘調査が行われ場所が特定された。
最近では、2018年(平成30年)2月、浅草2丁目14番の工事現場から八角形のコンクリート基礎の一部や大量の赤煉瓦が出土した。これで、明治中期には、既にコンクリートで土台を作る技術があったことが分かった。
因みに、大阪の北野茶屋町の有楽園には、1889年(明治22年)に9階建て、高さ39mの大阪凌雲閣(キタの九階)が竣工していた。
15~20人をカゴに乗せて、1階から8階までを昇降させる電動機エレベーター。
東京電力株式会社の前身である東京電燈会社から電気を取り、直流7馬力(5.3kw)の電動機で動かす予定だったが、開業当初から故障に継ぐ故障で、僅か2年で運転停止の憂き目に会う。
明治・大正期はガス灯のイメージが強いが、明治中期に電力供給が始まった。この時代は石炭火力発電所からの電力供給だった。
1890年(明治23年)11月27日、台東区千束町二丁目(現在の浅草二丁目14番5号あたり)に浅草凌雲閣(通称:十二階)が竣工した。
構造は1階から10階までが煉瓦造り、11・12階は木造、八角形12階建て、高さ59.82m(一説には67mとも)の塔で、用途は店舗と展望台だった。
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で8階から上部が倒壊し、余震が続くなか崩れる危険性が高いと判断し、陸軍が計画的に爆破し、その後再建されることは無かった。
東京都は200人乗り2隻、70~100人乗り2隻の防災船をそれぞれ2024・2025年度に完成させ、平時には防災訓練や防災の普及活動に利用する予定である。有事の際に、航路・船着き場の状況を調査し、物資や患者の輸送等に活用する。
東京都では、東京水辺ラインとして隅田川を航行する水上バスが防災船としての役割を担っているが、建造後30年以上も経過しているため、新たな防災船の建造に乗り出した。