2019/06/12 先憂後楽(せんゆうこうらく)の精神

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昭和45年12月に櫛田(日本不動産研究所初代理事長)が季刊「不動産研究(第13巻第1号)」の曙雑記Ⅸで発表した詩です。

戦後発展の光と影

昭和20年の終戦後、焼け野原からの復興にむけた急速な重化学工業化と大規模都市開発によって、日本経済と産業は劇的に回復・成長をとげました。地方からは若者達が大都市に労働者として大挙して押し寄せ、家電や自動車の製造業を中心に生活レベルも向上しました。都市沿岸部は大規模な製造工場や石油化学工場で埋め尽くされ、交通インフラの整備とともに住宅地は郊外へと急拡大した結果、農地や山林はみるみると宅地へと姿を変えていきました。

一方で、復興重視、成長重視によるあまりにも急速な工業化と都市化は、人々の経済的・物質的な豊かさを実現させた一方で、健康被害や有毒物質による公害問題を引き起こしました。終戦後10年ほど経過した昭和31年以降の公害に関する出来事を以下にまとめてみました。

戦後の公害問題
昭和31年(1956年)

水俣病公式確認(保健所へ報告)、水俣病熊本大研究班、工場排水が疑問と報告

昭和36年(1961年)

イタイイタイ病のカドミウム原因説が学会で発表される。胎児性水俣病患者公式確認。この頃から四日市でぜんそく患者多発

昭和37年(1962年)

中性洗剤の有毒性が問題化。東京のスモッグが問題化する(ばい煙規制法公布)

昭和38年(1963年) 新潟水俣病発症
昭和39年(1964年) 四日市で初めて公害病患者死亡
昭和40年(1965年)

阿賀野川流域で第二水俣病発見。東京都のゴミ捨て場「夢の島」でハエが大量発生

昭和42年(1967年) 公害対策基本法公布施行
昭和43年(1968年)

富山県のイタイイタイ病患者が三井金属鉱業に損害賠償請求訴訟、厚生省がイタイイタイ病の原因は三井金属鉱業のカドミウムと認定、大気汚染防止法・騒音規制法公布、カネミ油症事件(PCB混入の米ぬか油による中毒)

昭和44年(1969年)

東京都公害防止条例公布施行、公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法公布施行

昭和45年(1970年)

東京の牛込柳町で排気ガス鉛害の中毒患者発見、東京都杉並区の立正高校で全国初の光化学スモッグ発生、田子の浦港浚渫作業中、硫化水素ガス中毒、ヘドロ問題発生

緑こそわれらが生命

櫛田がこの詩を掲載した曙雑記のテーマが「緑こそわれらが生命」でした。ちょうど昭和45年(1970年)は公害法体系が本格的に施行され始めたころでしたが、櫛田はここで以下のように述べています。

「それにしても、昨今のわれわれ日本人一般の自然に対する態度をかえりみると、何か不安というか、幻滅というか、そのようなものを感ぜざるを得ないのであって、たとえ公害防止基本法に自然の保護がうたいこまれ、また自然保護憲章が定められたとしても、自然の保護が国民一般の行動原理として、どれほど普及するであろうか、よほど辛抱づよいデモンストレーションが必要なことであろうと思われるのである。」

確かに櫛田は過去の曙雑記でも「公害問題」「人々の豊かさとしての環境」について多くを語り、警告を発し、都市発展の裏側で多くの緑が失われていることを憂う発言をしています。さらに、以下のようにも述べています。

「(日本人は)もっと自然を大切にする国民であろうと思っていたのだけれども、これは既成観念に囚われた幻に過ぎなかったようである。この両三年来の緑の破壊を見るにつけ、聞くにつけて、胸が痛むばかりでありで、だからこそ、緑こそわれらが生命と声を涸らさねばならないという訳でもあろうか。」

果たして櫛田の「緑」が象徴するものとはなんであろうか?と私も考えました。もちろん、田畑や山林、湖沼、昆虫や小動物、鳥の鳴き声といった「自然環境」という意味が大きいはずです。とはいえ、単に緑があればよいということでもないと感じました。

「緑」は「生きる喜び」

朝から晩まで働き続けても、近代化された最先端の暮らしを享受できたとしても、生きる喜びは季節を肌で感じ取り、虫や小鳥の鳴き声を聞き、油や薬品ではなく、森や木々の匂いを感じながら暮らすことが大切だと櫛田は感じ、確信していたのだろうと思います。経済成長や都市の発展と人々の幸福、生きる喜びを両立させるためには、土地をいかにして活用すべきかを考えていたのではないでしょうか?その「生きる喜び」が「緑」という言葉で象徴されたのだろうと私は思っています。

先憂後楽(せんゆうこうらく)の精神

先憂後楽とは

中国、宋の時代「士大夫(したいふ)」という身分(官僚)がありました。士大夫の一人に范仲淹(はんちゅうえん)という人がいました。彼は「岳陽楼記(がくようろうき)」という書物の中で、為政者としての心構えを説いています。それは「天下の憂いに先立ちて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむこと」だということです。つまり、「リーダーは、人々よりも先んじて世の中(社会や経済など)を良くするために必要な課題や問題を憂慮して問題を取り除き、世の中の人々の生活が楽になってから一番最後に自分の人生を楽しみなさい」という意味です。これを「先憂後楽の精神」といいます。江戸時代、徳川光圀が江戸水戸藩上屋敷の庭園に「後楽園(小石川後楽園)」と名付けたのはこの精神を受け継いだものと言われています。現在「東京ドーム」となっていますが、その前は「後楽園球場」という球場名でした。

日本不動産研究所の精神

櫛田は、この詩のなかで「起きてしまう前にわからせることはとても難しい、しかし起きてしまってからでは取り返しがつかない、なんとしてでも分かってもらわなければならない」と憂いています。櫛田が考える不動産鑑定評価制度や日本不動産研究所の使命は、不動産に関わる多くの課題や、これから起こるであろう諸問題を、社会経済の動きを捉えながら進取し、人間と土地との関係を良好に維持することで本当の豊かさを追求することだと訴えたかったのだと思います。

社会経済の潮流に流されず、絶えず土地と人間との関係、真の暮らしの豊かさを探求し続けること、それが櫛田の言う「緑」を守るということなのかもしれません。(幸田仁)