2019/08/19 社会と人間と専門家(その1)

みなさん、こんにちは。幸田 仁です。

今年の夏は、連休とお盆が重なって長い夏休みを取られた方もたくさんいらっしゃったと思います。ただ、猛暑と台風はせっかくの連休も充分に満喫できなかった方々もいらっしゃることでしょう。私も8月上旬に北海道に帰省しましたが、30度を超える暑さでびっくりしました。

さて、今回のタイトルは「社会と人間と専門家」としました。このテーマは長くなってしまうため、2部構成として執筆したいと思います。

昨今の大きな事件から思うこと

このところ、信じられないような事件が相次いでいますね。無差別殺人や放火、親子間での虐待や殺人。連日大きく報道され、これらの事件に対する意見も様々。被害者や遺族のことを考えると、心が痛すぎて息苦しさを覚えてしまいます。いったいどうしてこのような事件が起きてしまうのだろうかと、一人悩み続けつつも、テレビでの専門家やコメンテーターの話を何気なく聞いていたとき、何か違和感めいたものを感じました。

人が「社会」を語るとき

「社会」を語ること、これは学問の社会ではなく、私達一人一人が属している(はずの)組織や集団を語ると言い換えることができます。組織や集団は小さいものから大きなものまでありますね。具体的には家族、学校、会社、自治体、国などです。それでは、私達がこれらの組織や集団について語るとき、どのような気持ちで話をするでしょうか?下のイラストをご覧ください。私が感じるのは左側のイラストです。議論する人たちは、テーマとなっている社会問題の外側にいます。つまり、彼らは「社会問題の観察者」として議論しているというイメージです。一方、右側のイラスト(理想的なイメージ)をご覧ください。これは同じように見えますが、議論する人たちが社会問題の内側にいます。これは「社会問題の当事者」として議論しているというイメージです。一見どちらも同じように見えますが、観察者として話をする場合と、当事者の気持ちで話をする場合とでは大きく異なると考えています。

%e7%a4%be%e4%bc%9a%e5%95%8f%e9%a1%8c

 

観察者感覚と当事者感覚の違い

たとえば、東日本大震災の被災者が新たな生活をどのようにして再建するか?という問題を考えるとき、大震災の恐ろしさ、その後の避難生活、生活再建のための苦労についての体験がない場合、本当の解決策を考えることは可能でしょうか?「私は、被災者の苦労を理解しています。」と人々が被災者に対して言葉をかけるとき、被災者は「理解してくれているな」と心から思えるでしょうか?

大きな災害を体験すること、事件の被害に遭うこと、大病を患うことを体験することで心に刻まれる気持ちは、言葉で伝えることができない様々な感情や印象、意識の変化を生み出すことでしょう。このような感情や意識は他人に伝えることはとても難しいことだと思います。それは「体験」というものが五感(視聴嗅味触)で感じ取るからです。体験者と未体験者の大きな違いは、直接五感で体験するか否かの違いによるのだと思っています。

社会問題を考えるとき体験者は最も苦しかったこと、最優先で解決すべき事を全人格を通じて感じ取っていますが、体験していない人々はそららのほんの一部を「言葉」「映像」「音」で読み取ることしかできません。さらには、このような体験を論ずる場合、多くの場合未体験者によって行われるのです。未体験者は様々な社会問題を「事象(出来事)」としてとらえ、パズルを解くかのように議論がなされます。社会問題を「事象」としてとらえて、因果関係や解決策を理論的(誰でも納得するかのように)に説明することが「観察者感覚」だと私は考えます。

では、「当事者感覚」とはどのようなことでしょうか?それは当事者の言葉には出来ない部分を可能な限り自分の五感で感じ取るように努力しつつ議論することだと考えています。五感で感じるためには、当事者の全てをくみ取らなければなりませんし、その場所に行って問題を五感で感じ取る必要があります。このような過程を経ることで十分ではないにせよ、当事者の気持ちをくみ取ることが可能となり、社会問題に対して向き合えることが可能になると思います。

数字の社会と心の社会

絶滅寸前の心の社会

私達が暮らす現代社会では、数字の社会と心の社会が併存していると強く感じています。数字の社会とは数学、物理学、統計学、工学、医学などのいわゆる理系の社会です。もちろんコンピューターやインターネットはまさしく0と1の数字の技術ですね。一方で心の社会とは、文学、歴史学、社会学、心理学、経済学、法律学などの文系の分野です(ただし、高度な数学を利用する分野も多く出てきています)。

若者の自殺者が増えたか、減ったかのみで社会を論じようとすること、会社では「売上」や「成果指標」という数字で従業員を評価しようとすること、これが数字の社会です。世の中が「数字」でしか人を評価しないことになれば、人々は数字の大きさのみが行動の基準となります。自殺した若者一人一人の人生には目を向けなくなってしまうのです。

確かに数字の社会は誰が見てもわかりやすく、普遍的な評価が可能です。その代表が「お金」です。ただし、忘れてはならないのは数字では評価できない社会、つまりお金には変換できない心の社会が確実に存在しているということです。問題なのは数字の社会が現代の経済活動や企業・組織活動、あるいは地域活動にまで浸透し、心の社会が絶滅寸前であるということではないでしょうか?

数字と心を研究するスタンスの違い

数字の分野、代表的には自然科学を研究する場合、「観測者」としての立場をとります。「雨が降る仕組み」の研究者はおそらく徹底的に天気を観測することでしょう。また研究者は結論に主観を挟んではいけないものでもあります。一方で、心の分野、人間や社会を研究する場合は、その人間や社会を観察しただけでは解決できません。その人々の気持ちになりきったり、その社会に身を投じて研究者自らが体験し、さらに感じ取ったことを自らの経験や観点、価値観で再評価するという作業が必要になります。

当事者意識で考えることの再評価が必要です

社会問題は、数字の社会と心の社会が複雑に絡み合っています。数字の社会が席巻したことで、人々は何事も「観測者」の立場で考えてしまう癖がついてしまってはいないか、もう一度心の社会を考えるための「当事者」の立場で考えることを再評価する時期に来ているのではないかと感じています。当事者以外は全て観測者では、物事の本質を見失う可能性があります。それが社会のひずみとして、益々問題は複雑になっているのではないでしょうか?

次回は、この感覚が私達不動産鑑定士のような専門家にも及びつつある状況と、私達にとって必要な意識について考えてみたいと思います。(幸田  仁)