2020/04/23 新型コロナの猛威から学ぶ世界恐慌(1)

みなさんこんにちは、日本不動産研究所の幸田 仁です。

 新型コロナウイルスが猛威を振るっています。首都圏を中心に感染者の増加は止まず、4月16日には安倍首相によって緊急事態宣言の対象が全国に拡大されました。既に外出自粛要請が行われていましたが、対象が全国に広がったことで地域経済や企業活動にも影響を与え始めています。日本よりもさらに深刻な状態となった欧米では都市封鎖(ロックダウン)にまで至る事態となっています。

そして4月14日、国際通貨基金(IMF)は世界経済見通しでは2020年の成長率を前年比3.0%減として、新型コロナウイルスによる感染拡大は、1920年~30年代の大恐慌(世界恐慌)以来最悪の同時不況に直面していると発表しました。

本コラムでも、人々が消えた都市について言及してきましたが、今回は「世界恐慌」とはどれほどのものだったのかについて説明し、次回以降で当時現役の大蔵官僚であった弊所初代理事長櫛田光男が体験したことをたどりつつ、研究所設立後に執筆された数多くの寄稿文や活動記録等から不動産鑑定評価制度の確立とともに、不動産鑑定士をはじめ、戦後社会に伝えたかったことについて考えてみたいと思います。

今回は世界恐慌と日本の状況について説明します。

世界恐慌とは?

 1929年(以降西暦で記載)10月24日、ニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに始まった世界的な経済の低迷を世界恐慌と言われています。ニューヨーク株式市場が大暴落した理由は多くの要因が複雑に絡み合っていますが、その遠因は第一次世界大戦による欧州の甚大な被害による経済活動の低迷、当時主流であった金本位制、第一次世界大戦でほぼ無傷であったアメリカ国内の株式市場や不動産市場の過熱(バブル)があると言われています。たとえば、アメリカの投資家の4割が証拠金取引(信用取引)にかかわり、投資ブームのかなめである投資信託会社は1921年には40社であったものが、1929年には265社設立されたとされています。多くのアメリカ国民が株式信用取引に熱狂した時代であったことを物語っています。

大量の失業者を生み出す

 その後のアメリカ国民に大きな打撃を与えたのは大量に発生した失業者でした。失業者数は1929年の155万人(労働人口全体の3.2%)から、1933年には1,200万人(同24%)に達したのです。ほんの5年前までは自家用車を乗り回し、フロリダに別荘を買おうといった好景気からの転落です。失業を免れても賃金は大幅に下落し、ある製造業ではフルタイム労働者がゼロとなり、全員がパート労働者となったそうです。町中には飢餓で倒れている人があふれ、数年前まで健全な企業のサラリーマンであった失業者たちは1個5セントのリンゴ売りに殺到しました。もちろんローンが残ったマイホームは抵当にとられ、ホームレスがあふれた状態に陥ったのです。多くの銀行も被害を免れず、恐慌によって6,000行もの銀行が破産したと言われています。

日本にとっての世界恐慌

 さて、アメリカの世界恐慌が、当時の日本にとってどのようなインパクトを与えたのかについて目を転じてみます。一言で言えば日本にとっての世界恐慌は、「とどめを刺された」という言葉が当てはまるのではないかと考えます。始まりは第一次世界大戦の好景気からになります。

第一次世界大戦景気

 欧州で始まった第一次世界大戦は、日本にとって輸出の増加と産業の発展に大きく寄与しました。製造業(造船業や紡績業)は人手不足となり地方から多くの労働者が都市部に大挙してきたのもこの頃です。

1918年11月、ドイツが休戦協定に調印し第一次世界大戦は終結しました。実は、日本でもこの好景気に乗じて投機的性格をもった商品や株式のバブルが発生していたのです。綿糸、生糸、米穀、土地などがのきなみ投機の対象として取引が行われていたのです。この投機的取引の一役を担ったのは当時の金融機関(銀行)であったことも重要です。特にこの当時の銀行は特定の企業の事業拡大に偏った融資を行う傾向があり、いわゆる「機関銀行」となっていた時代でもありました。ある銀行の貸出金の5割以上が特定の企業に対するものであったという状況です。

1920年恐慌

 もちろん、このようなバブルは、第一次世界大戦の終結によって一気にしぼんでいくことになります。1920年(大正9年)3月15日、東京株式市場は大暴落しました。いったん沈静化したかに見えた市場は大阪の「増田ビルブローカー銀行」が破綻したことをきっかけに、全国各地の銀行で取付(預金者がお金の引き出しのために銀行に殺到すること)が発生、財界は恐慌状態に陥りました。5月25日には横浜の有力銀行である七十四銀行(茂木商店の機関銀行)の破綻などで、企業は経営困難となり、破産が続出しました。この恐慌は第一次世界大戦後のバブルに沸いた投機的取引の反動ともいえるものでした。

1923年関東大震災

 次の大きな打撃は関東大震災です。1920年の恐慌がようやく落ち着きつつあった矢先、1923年9月1日、関東大震災が襲いかかりました。死者不明者約14万人、全壊消失家屋約57万戸という未曾有の大災害です。物的損失は日銀の推計によれば45億円、当時の国家財政規模が20億円ほどであるとすれば、現在で言えば数百兆の損害ということになることでしょう。当時の政府は経済が止まることをなんとしても避けるために日銀特融、復興のための公債発行などを行いましたが、救済すべき企業と投機取引の損失を明確に区別することができず、公平性を欠く部分も見られたとされています。ちなみに現在9月1日が「防災の日」となっているのは、関東大震災が発生した日だということも付け加えておきます。

1927年(昭和2年)恐慌

 明治大正以降、日本は国際経済に組み込まれつつも、金本位制という国際的な通貨制度に翻弄された時代でもありました。1927年3月14日、貴族院で審議中に当時の片岡大蔵大臣が予算委員会の席上で「渡辺銀行が破綻した」という早まった発言に端を発して、渡辺銀行はもとより、多くの銀行が取付に遭うという状況に陥りました。また、第一次世界大戦により巨額の富を得た商社である鈴木商店(後に日商岩井が引き継ぐ)と台湾銀行(特殊銀行であり破産は日本経済に大きな衝撃を与える)との修復できないほどの癒着が明らかになり、政府や日銀による必死の救済努力の甲斐なく、台湾銀行は休業に追い込まれました。同時に近江銀行という大銀行も休業となる事態に陥りました。今で言えば、3大メガバンクが破綻するほどの衝撃を国民に与えたといえるでしょう。

 台湾銀行の休業によって全国民は取付に殺到し、支払い不能となった銀行が多発したため、政府は1927年4月22日、緊急勅令としてモラトリアム(支払延期等)を断行しました。その際、国民を動揺させないようにとの通達を内務省が発令しています。その後、中小の新興企業、小財閥が没落し、これらは三井、三菱、住友等の大財閥に吸収され、ますます大財閥系は躍進したのです。

そして世界恐慌へ

 このように日本は第一次世界大戦後、数度の恐慌と災害に見舞われ、政府、国民、産業はことごとく疲弊していきました。共通する点は、アメリカの世界恐慌も、日本の1920年恐慌も、始まりは「投機(バブル)」です。景気は良いときもあれば悪いときもあります。しかし、時としてバブルの崩壊が国家の行く末を左右する事態を招くこともあるのです。そして、現在ほど世界的な金融市場システムが発達していなかったとはいえ、投機の対象は商品、株式、そして不動産でもあったという事実です。

新型コロナウイルスの蔓延は世界恐慌並みの不況を招くのか?

 さて、今回新型コロナウイルスによる世界的な感染被害が、世界恐慌以来の同時不況になるとのIMFの声明にはもう一つの共通点が思い浮かびます。それは通称「スペイン風邪」といわれるインフルエンザパンデミックです。

 1918年から1920年に流行したインフルエンザで、欧米諸国で数千万人が死亡しました。ちょうど第一次世界大戦の終結とインフルエンザの流行が同時期であることから、スペイン風邪が戦争を終結に導いたと説く人々もいます。通称「スペイン風邪」の大流行は多くの死者を出し、日本国内でも2000万人以上が感染し、40万人近くの国民が死亡したとされています。

 かつてのインフルエンザパンデミックが発生した世界情勢(第一次世界大戦があったこと、当時の医療技術の水準)と現代とは異なりますが、いずれにせよ、世界恐慌が意味すること、日本に対して与えた影響について知識をつけておくことは、これからの日本経済に対する解決策を考えるために参考になると同時に、1929年以降の日本が進めた政治や政策が1945年の終戦によって終焉を迎えたということです。

櫛田光男が見た世界恐慌、日本不動産研究所の設立に託した思い

次回は、このような時代の激変期を体験した弊所初代理事長櫛田光男が何を思い、日本不動産研究所設立にあたり、不動産鑑定評価制度の成立と不動産鑑定士に対して期待したこと、財団法人日本不動産研究所という組織を設立、主導し、櫛田は何を目指そうとしていたのかについて考えてみたいと思います。(幸田 仁)