2020/05/07 新型コロナの猛威から学ぶ世界恐慌(2)

皆さんこんにちは。日本不動産研究所の幸田 仁です。

新型コロナウイルスの猛威は未だ収束に至らず、5月4日、安倍首相は、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言を31日まで延長すると表明しました。人口が集中する三大都市圏と北海道、石川県や福岡県を特定警戒都道府県とし、外出は8割削減を目指す、出勤者の7割減、イベントの自粛などを継続して要請しました。その他の34県はやや自粛の要請を弱めましたが旅行や繁華街での飲食、テレワークの推進などを呼びかけることとなりました。

今回は第2部、弊所初代理事長櫛田光男が体験した世界恐慌と、「不動産のあり方」についてお伝えしたいと思います。

櫛田光男が体験した世界恐慌

櫛田の高校、大学時代

櫛田光男は大正9年(1920年)、旧制第一高等学校に入学しています。ちょうど大正9年恐慌が起きた年でした。労働争議(ストライキや団体交渉)が日本全国で発生し、企業と労働者との対立が激化した時期でもありました。5月には日本最初のメーデーが上野公園で開かれ1万人の労働者が参加したと言われています。

大正12年(1923年)、櫛田は東京帝国大学文学部英文学科に入学します。ちょうどその年の9月、関東大震災が発生しました。20歳の青年が体験した関東大震災、焼け野原となった東京は櫛田にとって大きなショックを受けたことと思います。というのも、翌年の大正13年(1924年)、櫛田は文学部から法学部政治学科に転学しているのです。転学のきっかけは、関東大震災によって荒廃した東京を再び復興させたいという思いがあったのではないでしょうか。

大蔵省入省から世界恐慌へ

昭和2年(1927年)、東大を卒業した櫛田は、大蔵省に入省し、財務書記として米国に在住しています。実はその頃、真珠湾攻撃にあたった連合艦隊司令長官の山本五十六も駐米大使館付武官としてアメリカに滞在しており、当時のアメリカと日本の国力差について身をもって体験した一人であったと思います。櫛田も同時期にアメリカに滞在し、日本とアメリカの国力の差を山本五十六とは違った視点で感じ取ったのかもしれません。

約1年の滞在後、櫛田は日本に帰国しています。その翌年の昭和4年(1929年)にニューヨーク株式市場の大暴落(暗黒の木曜日)が発生、世界恐慌の始まりとなったのです。

ニューヨークに端を発した世界恐慌は、日本国内でも株式・生糸・綿糸・砂糖などの相場が暴落などの経済不況に加え、昭和9年(1934年)には、日本全国での干害、大凶作が発生し、東北地方では特に激しく自殺、娘の身売り、欠食児童や餓死者が出るなど凄惨な災害が続きました。

このような世界恐慌以降の日本国内の金融、経済情勢と諸産業は日露戦争後一等国と言われた状況からまさに波乱の事態に陥っていきました。アジアの覇権を狙う軍部と、国内の金融と経済を担う大蔵省との間での摩擦が深まる中、太平洋戦争へと突き進んでいきました。

太平洋戦争から終戦へ

2度経験した大都市東京の焼け野原

櫛田が大蔵省総合計画局戦時物価部長となり太平洋戦争終戦間近の昭和20年(1945年)3月、あの東京大空襲を体験したのです。大正12年(1923年)年の関東大震災、昭和20年(1945年)の東京大空襲と、櫛田は東京が焼け野原となり、多くの死者と瓦礫の山と化した大都市東京の景色を2度目の当たりにしたのです。

不動産の鑑定評価に関する基本的考察に込められた思い

残された言葉から、言葉では語れなかった「知」を得ること

櫛田は日本不動産研究所の理事長として、あるいは日本不動産鑑定協会(現在の日本不動産鑑定士協会連合会)の初代会長として多くの言葉を残しています。しかし、その言葉のみで櫛田が伝えたかった「知」を知ることは難しいかもしれません。

もし現在、櫛田と同じような時間軸と空間軸を体験していれば、彼が残した言葉に隠された真意を飲み込めたかもしれませんが、それは不可能なことです。

ならば、櫛田の残した記録、言葉から語りきれなかった「知」を感じ取ることが必要になります。その方法として私は櫛田の人生という時間軸から読み取ろうとしています。私は世界恐慌も太平洋戦争も体験していません。その時代に生きた人たちの不安、恐怖や、見えた景色、聞こえた音、臭い、焼け野原を歩いた感覚を実感することはできません。

「不動産のあり方」に込められた意味

櫛田は、土地は人間の生活と活動とに欠くことの出来ない基盤であり、土地と人間との関係を「不動産のあり方」と説明しました。さらに、櫛田は「この不動産のあり方は人間の作品でありますが、一度形成されると、所与の外部条件に転化して、われわれ人間の状態や行動を規定するものとなり、われわれの現在および将来を拘束する大きな力を示すことになります。」とし、不動産のあり方はわれわれの歴史の決定因子の重要なものの一つであると説明しているのです。

自然災害、あるいは戦争を体験した櫛田のいう「歴史」とは何を意味するのでしょうか。そして一度形成された不動産が人間の状態や行動を規定するとは何を指すのでしょうか。

不動産のあり方は変化の過程にあり、この変化は主にその時代の人々の行動規範や様式によって制約されてくると言えそうです。ならば、櫛田は不動産鑑定評価という実践活動と不動産のあり方に対する探究に何を期待したのでしょうか。

次回は、櫛田が執筆した多くの寄稿から、語り尽くせなかった何かを探ってみたいと思います。(幸田 仁)