これからの日本橋

Vol6.『O-Path 目黒大橋』まち・みち一体型まちづくり

Vol.7 日本橋 老舗の伝統と 先進の都市計画がつくる、界隈の賑わい

株式会社 ポリテック・エイディディ 代表取締役社長 山口 信逸 氏

7.15 UPDATE

これからの日本橋

 越後屋を始祖とし当地に本社を置く三井不動産が「残しながら、蘇らせながら、創っていく」と表しているように日本橋地区は江戸以来400年の有形無形の歴史資産を、時代々々で適切に活かしながら都市づくりを進めてきた。そうした当地関係者の多くが「負の遺産」と言って憚らないのが、日本橋川上空の首都高速道路である。

●日本橋に空を

 本稿冒頭で紹介したように日本橋が最初に架けられたのは410年前。江戸時代は火事が多く橋も度々類焼し、その都度再架橋が繰り返された。明治初期には西洋スタイルの木橋に架け替えられ、その後を襲った現在の石造アーチ橋は明治44(1911)年に竣工した20代目の日本橋である。

 20代目は関東大震災と東京大空襲も耐えて平成11(1999)年、重要文化財に指定、平成23(2011)年には架橋100周年記念行事が挙行された。前述の通り昭和38(1963)年に首都高開通、43(1968)年に名橋「日本橋」保存会発足である。

 河川上空への高速道路橋建設は、当時の諸条件からすれば妥当な選択だったかもしれない。しかしお江戸日本橋の名橋が相手では分が悪い。隣国ソウルのチョンゲチョン(清蹊川)で実現した高架道路撤去と清流復活も引合いに出され、2005年には小泉首相が「日本橋の検討」を指示、翌年「日本橋川に空を取り戻す会」提言がなされた。

 首都高速環状線の一部区間を単純に廃止するわけには行かず、代替路線用地、工法、財源等、解決すべき課題は多い。しかし首都高全般にわたる老朽化対策、東日本大震災を経て東京全体での都市構造強靱化の必要性等が認識され風向きは変わってきた。ついに、本年5月19日には日本橋地区を視察した舛添知事が、都知事としては初めて、日本橋上空の首都高撤去に前向きの方向感を表明し、地元の期待は高まっている。

●日本橋に水を

  昭和30年代の東京五輪準備工事期に、日本橋川が洪水調整の必要から埋め立てを免れたことは、せめてもの幸いとでも言うべきか。楓川や築地川は完全に埋め立てられて高速道路に置き換わってしまった。日本橋川は空を取り戻すと同時に、水面も、街と共存する清潔なアメニティ空間として回復する必要がある。

 既に水質改善の努力は重ねられ、実を結んでいる。京都・鴨川等の川床にヒントを得た社会実験「かわてらす」が日本橋川沿いでも始まった。リバーフロントの再開発が、これまで以上に親水性豊かなものとして実行されることが期待される。

●「大」日本橋へ ~ 地域間連携

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 先に示した街区再編型プロジェクトの分布状況からは、中央通りに沿う「都市軸」が今後更に強調される印象を受ける。本稿の締め括りとして、この都市軸をめぐる二つの動きに触れたい。これらは今後の日本橋地区の一層のパワーアップを予感させるものだ。

 一つ目は、中央通り軸の延長方向、京橋地区との連動強化である。元々、江戸の中心部で京橋と日本橋は、ある意味で対のような存在だった。地区名としても中央区のルーツは日本橋区と京橋区。その両地区が八重洲地区を媒介にして連坦し、高密複合都市機能ゾーンを形成し、国家戦略特区の一つのエンジン的存在となっている。

 二つ目は、中央通り軸と直交方向の連携活性化の始動だ。通称・御幸通りに沿う連続イベントの仕掛けなどで、人形町や浜町が、本町等の狭義の日本橋地区と存外近く、徒歩でも往来できることを人々に思い出させている。経済的パワーだけでなく文化的な厚み、都心の暮らしの面白さが加わり、広義の日本橋地区全体での持続的・統合的都市再生への発展が期待される。

参考文献等
・日本橋トポグラフィ編集委員会(2007):「日本橋トポグラフィ事典」【本編】、【地誌編】たる出版
・日本橋地域づくり情報連絡会(2011):「日本橋1911-2011」
・佐藤洋一/武揚堂編集部(2007):「地図物語 あの日の日本橋」武揚堂
・白石孝(2003):「日本橋街並み繁昌史」慶應義塾大学出版会
・中央区教育委員会事務局(2007)「中央区歴史・観光まち歩きガイドブック」
・竹内誠監修(2013)「ビジュアルアーカイブス東京都中央区日本橋・銀座の100年」
 ミヤオビパブリッシング
・国土交通省関東地方整備局東京国道事務所ホームページ
・東京都ホームページ
・東京都中央区ホームページ
・日本橋ルネッサンス委員会ホームページ
・名橋「日本橋」保存会ホームページ
・日本橋川に空を取り戻す会ホームページ
・三井不動産ホームページ