ステキなまちづくりの契機(パートナーとの出会い)

Vol 8.1 山の手・代官山 都市に素敵な風景をつくる ―都市デザイン力で素敵なまちづくり―

Vol8.2 寺町・谷中

 

Vol 8.1 山の手・代官山 都市に素敵な風景をつくる ―都市デザイン力で素敵なまちづくり―

東京藝術大学美術学部建築科 講師 河村 茂 氏 博士(工学)

 
9.30 UPDATE

ステキなまちづくりの契機(パートナーとの出会い)

施主・朝倉家と建築家・槇文彦との邂逅 

 代官山は今日、原宿や青山などとともに、ファッショナブルなまちとして知られている。このまちが地域ブランドにまで高まったのは、なんといってもヒルサイドテラスの存在がある。この低層建築物群の開発は、地元の中小デベロッパー朝倉不動産と建築家の槇文彦が組んで、集合住宅を中心に商業、文化施設などもまじえ、四半世紀以上にわたり都会的センスあふれる建築デザインを積み重ねることで、この地の風景を素敵なまちに変えていった。

  それでは、このヒルサイドテラスを世に送り出した、この地の大地主で不動産業を営む朝倉誠一郎と、建築家・槇文彦(慶応、東大そしてハーバードに学び、アメリカの大学でアーバンデザインの教鞭を執る)との出会いから話を始めよう。この二人が出会ったのは1967年で、東京オリンピックの開催から僅か3年後のことであった。

  朝倉家は、明治2年に、この地で精米業を始めるが、地租改正に伴い地租の納入が現金払いとなると、土地を維持できなくなった農民から、精米で得た現金を用い土地を次々と買い取っていった。そして最盛期には、中目黒から恵比寿、代官山などに、2万坪ほどの土地を所有するようになる。跡取りのいない朝倉家に養子に入った虎治郎(現在の社長の祖父)は、明治37年に渋谷町そして大正4年には東京府の議員となり、地元のまちづくりや東京の都市基盤整備に取り組む。今日、このまちの軸となっている旧山の手通り(幅員22m)は、虎治郎の奮闘(土地も供出)により1933年に整備された道路である。朝倉家は虎治郎に男子がいなかったため、その弟・八郎の長男・誠一郎を養子に迎える。この誠一郎が現在の朝倉不動産を担う徳道・健吾兄弟の父である。

  1929年、朝倉家は自らが所有する土地に「共託社アパート」を建て、アパート賃貸業に乗り出す。その後も順次、アパートを建設・経営していき、最盛期には部屋数約1,000を数えるほどになる。そうして1936年に、朝倉不動産の前身・猿楽興業が設立される。しかし、折悪しく空襲により朝倉家所有の木造アパートは、その9割ほどが灰塵と化してしまう。その後、借地借家法や地代家賃統制令また相続税の支払いもあり、朝倉家の不動産経営は苦境に陥り土地・家屋の多くを手放すことになる。しかし、自邸のある旧山の手通りに面した一角だけはなんとか残す。

 日本経済が高度成長の軌道に乗る1961年、朝倉家最初の鉄筋コンクリート造アパートが中目黒に建設される。そして東京オリンピックを挟んだ1967年、旧山の手通り沿いに時代を画すことになる代官山集合住宅の建設話が持ち上がる。朝倉家は、この地が米店発祥の地であることから、代官山には特別な思いをもっていた。誠一郎は、この地は機能だけでなく、もつと付加価値の高いものをと考えていた。しかし具体のイメージをもっていたわけではない。朝倉は住宅事業者として質の良いアパート経営に向け、人を介しこれを担うに相応しい建築家を求めていた。そんなとき慶応の縁で、建築家としてのキャリアをスタートさせたばかりの(1965年に事務所を開設)、槇文彦(当時39歳)に出会う。この時、誠一郎は「鉄筋コンクリート造のアパート1棟を建てたい」といったが、槇は、「最低2棟は必要です」と返した。建築家・槇の都市と建築を結ぶ設計スタイルは一貫しており、槇の頭の中には単なるアパートの建築ではなく、都市へのアプローチがあった。そうして代官山集合住居計画(ヒルサイドテラス)はスタートする。

  この計画は、一期A・B棟の建設で終わらず二期・三期と続き、1973年にC棟、1977年にD・E棟が完成する。そして四期、六期になると通りを挟んで南東側(アネックスA・B棟)や、北東側(F・G・H棟)に広がっていく。この地の開発は正に連歌のようにして、前の句(開発)を受け次の句が発せられるように、槇は出来上がった環境を見ては時代のニーズにあわせマスタープランに必要な修正を加え、建築を続けていった。ヒルサイドテラスの建築は、20~30年と継続し正に「まちづくり」そのものとなった。

 
朝倉は地元の不動産屋としての自覚はあったが、一団の住宅地開発を展開するデベロッパー、しかも住宅だけでなく店舗や事務所また文化施設の経営まで手掛けるとは、思いだにしなかった。建築家に依頼するのだから、四角い鉄筋コンクリートのアパートとは少し違う、上質なものができるだろうぐらいの期待はあったが、それがヒルサイドテラスのように都市の風景を変える力を持った立派なものになるとは夢想だにしなかった。
朝倉は第一期が完成したときの世間の反応にびっくりした。それは建築の関係者だけでなくマスコミやジャーナリストまでが、この地に足を運んできたからである。世の中はヒルサイドテラスの出現に、新鮮な、そして大きな衝撃(カルチャーショック)を受けた。