まちづくりの沿革 (江戸の防衛拠点、寺町から下町、都会の隠れ里へ)

Vol 8.2 寺町・谷中 都会の隠れ里、雑誌でまちづくり ―地域価値を発掘、世間の支持を得て修復・保存―

Vol8.1 山の手・代官山

 

Vol 8.2 寺町・谷中 都会の隠れ里、雑誌でまちづくり 
―地域価値を発掘、世間の支持を得て修復・保存―

東京藝術大学美術学部建築科 講師 河村 茂 氏 博士(工学)

 
9.30 UPDATE

まちづくりの沿革 (江戸の防衛拠点、寺町から下町、都会の隠れ里へ)

 谷中とは、東はJR山手線、北は日暮里、道灌山通り、西は根津・千駄木、不忍通り、南は上野公園に囲まれた地域で、東京都心に近く、丸の内や銀座などへもスニーカー履いて歩いていける場所にある。

  この地は江戸城から見て鬼門(北東)の方向にあるため、都市江戸を防衛するべく、徳川家の菩提寺として寛永寺」が配された。そしてその裏手を固めるため、その子院が順次、立地していった。防衛のため、なぜ寺院なのかというと、江戸以前、寺社勢力はその有する財力から、大名と同じく一大軍事力を養っていた。このことからも推察されるように、上野・谷中の地は江戸の北の護りとして、いざというときに備えていたのである。

寛永寺

 寛永寺は、京都延暦寺に擬えた江戸鎮護の性格をもつである。即ち、江戸城から見て陰陽道における鬼門(北東)の方向に位置しており、平安京(京都)の北東に、琵琶湖に近接し比叡山延暦寺が配されているのにならい、江戸城の北東、不忍池の側の上野の山に建てられた。その名も比叡山にならって東の比叡山ということで東叡山、そして延暦寺が延暦年間にできたので延暦寺と称したのを真似て、寛永年間にできたので「寛永寺」と名付けられた。また、琵琶湖には日本三弁天の一つ竹生島が浮かんでいるが、ここでも京にならい上野の山の麓の不忍池に中島を造成し、ここに弁天堂を建立して弁財天を祀った。

  その後、この寛永寺には、家光の子である第四代と第五代の将軍が埋葬されたため、この寺は徳川家の菩提寺としての性格ももつようになる。家光自身は家康ともども日光に眠っている。このことについて、徳川家の元祖菩提寺で第二代将軍秀忠が眠る増上寺が強く抗議したため、その後、将軍の遺体は双方の寺に埋葬されるようになる。

  この増上寺と江戸城そして寛永寺は、南西から北東の方向に一直線に並んでいる。このような関係にある、その他の寺社としては日枝神社と神田明神社がある。幕府は、このようにして将軍と徳川家を魔物から護るため、江戸城を中心に計画的に寺社を配置していった。

 その江戸も慶安年間(1648年 – 1651年)に入ると、平和を見て安定、すると全国から多くの人々が江戸に集ってきて市街が拡大、この時、都心の神田から押し出されるようにして、この地に15の寺院が移転した。また、1657年の明暦の大火により江戸市街の過半が焼失すると、江戸の都市改造が行われ大江戸が形成されるが、都市が拡張すれば、これに伴い、この地の防衛拠点として機能も増強する必要がでた。そうしてこの地にはさらに多くの寺院が移転し、その数70を超えるようになる(最盛期は98、明治維新前後の上野戦争で多くの寺院が焼失、現在は60)。この地のまちづくりにあたっては、台地上の谷地という微地形を活用し、狭い道をさらにわざと曲げてくねらせ、階段を付けたり行き止まりにするなどして、この地への敵の進入スピードを削ぐようにして整備していった。

 

 このようにして谷中は、「寺町」としての地歩を固めていくが、時代が進み江戸も世の平安が定まると、寺院門前の境内地は、次第に町人に貸与されるようになり、町屋が開かれていく。江戸も中期から後期になると、墓参を兼ねた行楽が盛んとなり参詣客などが増加していく。そうしてこの地は江戸庶民の行楽の場として発展、境内地の町屋には、これに関連し生業(寿司屋、和菓子屋、工芸職人等)を営む者が多く暮らすようになり、下町化していく。彼らの居住スタイルは、借家の長屋に住み込んで暮らすのが一般的であった。こうしてこの地は、寺町と下町とが折り混ざり独特の風情を醸すようになっていく。

  明治・大正期になり近代産業が発展、また都市が拡大してくると、この地は地方からの移住者の受け皿となり、商工業者が多く住むようになる。1916年に不忍通りに路面電車が通るが、この地ではこれまで区画整理など近代的な都市基盤の整備は行われてこなかった。この都電も1967年には廃止され、これに代わって1969年に地下鉄千代田線が開通、すると人の流れが変わり、この地の近隣商店街・谷中銀座の客足が急激に減少、1971年に西日暮里駅が開設されても戻らなかった。高度成長期に入っても、この地は道路の幅が狭く関東大震災や戦災を免れたこともあり、昔ながらの町並みや建造物が多く残され、木造家屋が密集していたことから、再開発の波からも遠ざけられ、江戸期の都市基盤のまま建物もなかなか更新されず、「近代化に乗り遅れた旧式なまち」として、あたかも隠れ里のような雰囲気を醸している。