まちづくりの歴史的沿革

Vol2.
京都祇園、独特の風情を
維持・継承し地場産業活性化

Vol2. 京都祇園、独特の風情を維持・継承し地場産業活性化

東京藝術大学美術学部建築科 講師 河村 茂 氏 博士(工学)

12.19 UPDATE

まちづくりの歴史的沿革

 祇園町は、もと八坂新地といい、八坂神社西門から鴨(かも)川以東の四条通南北の両側に広がっており、北は新橋通より南は建仁寺境まで、また西は大和大路通より東は東大路通に至る地域をいう。かつて東山山麓(さんろく)の一寒村にすぎなかったこの地も、江戸初期からは八坂神社や清水(きよみず)寺への参詣(さんけい)客を相手に、水茶屋が軒を並べ茶汲み女が妍(けん)を競う、門前町を形成するようになっていった。

 祇園町も江戸中期の1713年(正徳3)には、四条通り北の白川沿いの新橋付近に新たに内六町が開かれ、ここが1732年(享保17)に遊里として認められると、京の遊里の中心は西新屋敷(島原)から祇園へと移り、京都有数の花街(舞妓がいることでも有名)を形成していく。現在、祇園町は北部の新橋通から白川沿いの地区は、重要伝統的建造物群保存地区(1.4ha)に、また南部の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区(6.6ha)に、それぞれ指定されており、現在、木造建築の宝庫として京都を代表する歴史的景観地区を形成している。

 この祇園町のうち、ここでとりあげる祇園のまち(祇園町南地区)は、京都市の東山(ひがしやま)区に位置し、東大路以西で四条通以南、法観寺の門前道で建仁寺の南境にある八坂通までの木造茶屋建築物の集積する市街を範囲とする。

 このまちは八坂神社(江戸時代までは祇園社)の門前町として鎌倉時代のはじめ頃には発生、1200年代に開かれた最古の禅宗寺院として有名な、建仁寺の境内地を取り囲むように形成されており、応仁の乱後の祇園会の復興とともに水茶屋町として歩んできた。京は16世紀後半、豊臣秀吉が方広寺と伏見城を築くと、大和大路はにわかに人の往来が増え、通りに町並みが形成されていった。江戸時代に入り寛文6年(1666)宮川町通が開通し、同10年(1670)に鴨川護岸の石積みが完成すると、宮川町の町並みが急速に整っていき、この頃、歌舞伎の流行もあって、この地は茶屋町として発展していく。祇園のまちを特徴づける木造茶屋形式の建物は、四条通より南側に多くみられ、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、祇園会館などがある。祇園という地名は八坂神社の旧称祇園社(祇園感神院(かんしんいん))にちなんでいる。

 明治に入り維新前夜の火災や洛中の戦火、また1872年(明治5)の東京遷都によって打撃を受け衰退していく京都を救うため、その復興策の一つとして、京都に観光客を集めるため、花見小路に祇園歌舞練場を建て「都をどり」が始まる。また、1873年に建仁寺の塔頭が64院から14院に整理され、町地への転換が図られる。その広大な境内地のうち約18,000坪(約6㏊)が納付されると、その翌年には祇園女紅場がこの土地を譲り受け、東西に南園小路、青柳小路、初音小路を、そして南北に花見小路を築造、1900年前後の明治30年代に入ると順次、女紅場学園の手によってお茶屋宅地が整備され、祇園町南側には新たな町並みが形成されていく(約350軒)

 また,1911年には八坂病院(敷地面積約14,200㎡)の跡地を社団法人祇園新地甲部組合が購入し、1913年3月に現在の歌舞練場を完成させる。この建物は純檜造で客席は494席、待ち合い所等を含めると建坪1,300坪(約4,290㎡)の大規模建築となっている。大正初期に東大路通が開通したのを機に、これにあわせ八坂通も築造されるなどして、沿道の町並みが次第に整っていき、祇園は京都を代表する観光地となる。